鬼が怖くて「手洗い・うがい」

子ども

 今日は非常勤先幼稚園で、節分のイベントとして豆まきが行われました。

 午前中に近隣の公園で「体育」を行い、お弁当を食べた後に自由遊びの時間があり、その後に豆まきという流れでした。

 公園から戻ったら手洗い・うがいをして、”お弁当当番”の年長さんのが準備を始め、その他の子どもは先生に絵本を読んでもらいながら、準備が整うのを待つというのが通常のパターンですが、今日は”豆まきバージョン”で、体育を20分早く終了した分、手洗い・うがいを終えた後、節分の絵本の読み聞かせを全員で観ることになっていました。

 私も手洗い・うがいを済ませて読み聞かせの場所に行くと、年長さん8人が座っていました。さすがに早い!

 「手洗い・うがいが終わった人~」と聞いたところ、「は~い!」と全員が手を挙げました。
 続けて、両手を頭上から横に広げながら「鬼はこ~んなに大きくもなれるし」、親指と人差し指で示しながら「こ~んなに小さくなって体に入ることもできるから、手をちゃんと洗わないで顔に触ったら、鼻とか口から体に入っちゃうからね。大変だよ」と言いました。

 すると、H君が立ち上がり、「もう1回洗ってくる」と洗面台に向かいました。それを見たS君は明らかに動揺した表情でA君の後ろ姿と私の顔を交互に見て、「僕も洗ってくる!」と慌てて後を追いました。

 鬼がインフルエンザの感染予防に一役買った形です。

 ふと、幼い頃、「子どもだけで川で遊んでたら河童に臍を取られるぞ」と脅されていたことを思い出しました。
 歩いて数分で相模川に行ける場所に自宅がありましたが、河童が怖かったので1人で川に行くことはありませんでした。
 
 一定の年齢以上の人は、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と言われたことがあると思います。いつの頃からか、こういった”子ども騙し”を耳にすることがなくなりました。昔からの言い伝えやことわざ、慣用句などが「非科学的」と一蹴された時代を経て、今となっては昔話やおとぎ話のように扱われている気がします。

 過度に脅すことはトラウマやPTSDの心配がありますが、危険度に見合った恐怖感は必要です。実際の危険度が理解できない年齢の子どもには、それに見合った怖さ、且つ”サンタクロースはいない”と確信する頃には恐怖が消える程度の架空の存在が必要なのではないかと思います。

 ことわざでも慣用句でもありませんが、「死」という言葉と一蓮托生で使われなくなった「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ!」には親の愛情を感じます。
 子どもに対して愛情を持ちながらも、時にその行動や言動に対して苛立ちを感じることがあります。思春期の許しがたい言動に対する親の複雑な感情がこの言葉に込められているように思います。

 日進月歩で新しい技術やサービスが生み出される中、正解が多すぎて正義も多数決になっているように思えます。一度立ち止まって先人の教えを見直ことも必要かもしれません。

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